大蛇山
三池祗園の大蛇山は祗園社の祭礼に伴う行事で、現在はスサノオノミコトを祭神とする神社の神事として「五穀豊穣」「無病息災」を願い奉納されている。
その起源は大蛇山に使用する山車に柳河藩立花家の家紋と「御前山」の文字が刻まれており、島原の乱(西暦1637-1638)の戦勝を祝し下賜されたと言われ、寛永時代に始まり380年以上の歴史を有するものです。
町内巡行の祭に奏でられる樂は、戦場に赴く勇壮な「行きの樂」から始まり、神社に戻る際には、戦いを終えて戦死した者を弔う為とされる「帰りの樂」へと移る。
本大蛇は平成22年4月、大牟田市教育委員会より無形民俗文化財の指定を受けるが、その背景には、伝統行事の歴史の古さと同時に、山車に刻まれた三池二山特有の雲龍彫りなど見事な装飾が施されている事にもある。
大蛇山を語るには絶対に外せない御前山は一見の価値あり。
大蛇山について
寛永十四年 (1637年)今から約360年前、 島原の乱が起こる。
この乱の鎖圧に出兵する事になるが、三池藩主が幼少のため柳河藩立花宗茂は上内の立花内膳政俊宗繁に島原の乱出陣を命じる。政俊は三池藩兵数百名の総大将として島原の陣に軍を進める。
この戦いの戦功により藩主宗茂は政俊に上内一千石の禄を下賜する。以来、明治維新に至までこの地を知行することになる。
当時、宿場町として栄えていた三池本町に立花内膳家よりの三池本町祇園宮の祭りに対して大蛇山車が下賜される。島原の役戦勝のご祝儀だったかも知れない。
「三池本町大蛇山は内膳さんから贈られたもの」「それに感謝して領民は祇 園宮の参道入口を上内の方に向けて造った」という言い伝えからもうなづける。
上内領を知行する立花内膳家初代のときか、数代後の事かは資料となる文書等がなく、伝承からそれをうかがい知るだけである。
郷土史の研究家のなかに
「大蛇山の出現は文書によれば寛政三年 (1791年)今から二百十二年前」といわれている説がある。
三池本町の山車(御前山)は、 欄間に細工された見事な雲竜の彫刻と朱色に 彩色された桜材を使った四本の柱、この柱は山車の舞台から上部は丸形(円柱)に削られていて、舞台より下部、 車支持の部分は六角形の角材に削られている、楠材で造った四個の車など歴史の重みを感じる重厚なものである。
山車の大きさは、車の直径95cm、厚さ30cm、柱の長さ3m85cm、柱の直径20cm、山車の横幅3m98cm、縦幅2m55cm、地面から屋根の頂までの高さ4m70cmでその姿は、豪華絢爛、堂々たるもので観るものにとっては威圧さえ感じさせられる。
祇園樂について
祇園の樂には、のぼり楽(行き)と下り楽(帰り)の二つがある。 使用する楽器は、和楽器の太鼓と打鐘、それに横笛、ほら貝を使っている。 言い伝えによると、朝鮮の役 (1592年~1597年)肥前名護屋出陣のときに奏されたのが上り楽で凱旋のときの楽が下り楽といわれている。 太鼓、鐘、横笛、ほら貝を用いるのが正式な形といわれている。
楽器のうち横笛は別として、他はすべて軍用具であり、楽の調子は勇壮に感じとられる。
なかでも、楽器の一つであるほら貝の使用を考えてみると、大蛇山の勇壮さにつながるものと思われる。
三池本町で一月十五日に古くから行われてきた火難除けの「臼かぶり」にもほら貝を用いている。「ほら」は修験者(三池地方にいた山伏)の士気を鼓舞し、いろいろな合図にも用いられている。
疫病の邪悪祓い豊穣を祈る、熱烈な祇園信仰と山伏の有する加持祈祷の験力とひとつにとけあい、そのほら貝の響きによって大蛇山のいっそうの霊力を発揮するようになったのではと思われている。
ほら貝の三半、 二半、一半音の出発の合図によって、山車はおごそかに動きだし、相次いで、錨や太鼓、笛が奏せられたのであろう。今でも、大蛇山車の巡幸には、これらの楽器による1況が奏せられている。