三池本町祇園宮

神社会より
当社のホームページをご覧いただきありがとうございます。
三池本町弥劔神社会(通称:三池本町祇園宮)を代表して
ご挨拶申し上げます。

私たちは悠久の歴史を感じる由緒深い三池本町弥劔神社の
祀事・神事を
現代でもしっかりと
伝統を守り受け継ぎ実行しています。

三池本町祇園宮

三池本町祇園宮

(三池本町弥劔神社)

三池地区の集落的生成は平安朝には起こったと言われ、午頭天王即ち(祇園宮)の信仰が全国的に普及したのは南北朝時代前後だと云われていますのでその頃に創建されたのではないかと言われています。
その後、城下町として栄え三池地区の住民から「祗園さん」の名で親しまれているのが三池本町祇園宮(三池本町弥劔神社)です。
現在は主な神事として7月第3日曜日に御輿巡行、7月第4日曜日に御前山巡行、1月成人の日に水(臼)かぶりを行なっています。

三池本町祇園宮(三池本町弥劔神社)
福岡県大牟田市大字三池810

大蛇山

大蛇山

三池祗園の大蛇山は祗園社の祭礼に伴う行事で、現在はスサノオノミコトを祭神とする神社の神事として「五穀豊穣」「無病息災」を願い奉納されている。
その起源は大蛇山に使用する山車に柳河藩立花家の家紋と「御前山」の文字が刻まれており、島原の乱(西暦1637-1638)の戦勝を祝し下賜されたと言われ、寛永時代に始まり380年以上の歴史を有するものです。
町内巡行の祭に奏でられる樂は、戦場に赴く勇壮な「行きの樂」から始まり、神社に戻る際には、戦いを終えて戦死した者を弔う為とされる「帰りの樂」へと移る。
本大蛇は平成22年4月、大牟田市教育委員会より無形民俗文化財の指定を受けるが、その背景には、伝統行事の歴史の古さと同時に、山車に刻まれた三池二山特有の雲龍彫りなど見事な装飾が施されている事にもある。
大蛇山を語るには絶対に外せない御前山は一見の価値あり。

大蛇山について

寛永十四年 (1637年)今から約360年前、 島原の乱が起こる。
この乱の鎖圧に出兵する事になるが、三池藩主が幼少のため柳河藩立花宗茂は上内の立花内膳政俊宗繁に島原の乱出陣を命じる。政俊は三池藩兵数百名の総大将として島原の陣に軍を進める。
この戦いの戦功により藩主宗茂は政俊に上内一千石の禄を下賜する。以来、明治維新に至までこの地を知行することになる。
当時、宿場町として栄えていた三池本町に立花内膳家よりの三池本町祇園宮の祭りに対して大蛇山車が下賜される。島原の役戦勝のご祝儀だったかも知れない。
「三池本町大蛇山は内膳さんから贈られたもの」「それに感謝して領民は祇 園宮の参道入口を上内の方に向けて造った」という言い伝えからもうなづける。
上内領を知行する立花内膳家初代のときか、数代後の事かは資料となる文書等がなく、伝承からそれをうかがい知るだけである。

郷土史の研究家のなかに
「大蛇山の出現は文書によれば寛政三年 (1791年)今から二百十二年前」といわれている説がある。
三池本町の山車(御前山)は、 欄間に細工された見事な雲竜の彫刻と朱色に 彩色された桜材を使った四本の柱、この柱は山車の舞台から上部は丸形(円柱)に削られていて、舞台より下部、 車支持の部分は六角形の角材に削られている、楠材で造った四個の車など歴史の重みを感じる重厚なものである。
山車の大きさは、車の直径95cm、厚さ30cm、柱の長さ3m85cm、柱の直径20cm、山車の横幅3m98cm、縦幅2m55cm、地面から屋根の頂までの高さ4m70cmでその姿は、豪華絢爛、堂々たるもので観るものにとっては威圧さえ感じさせられる。

祇園樂について

祇園の樂には、のぼり楽(行き)と下り楽(帰り)の二つがある。 使用する楽器は、和楽器の太鼓と打鐘、それに横笛、ほら貝を使っている。 言い伝えによると、朝鮮の役 (1592年~1597年)肥前名護屋出陣のときに奏されたのが上り楽で凱旋のときの楽が下り楽といわれている。 太鼓、鐘、横笛、ほら貝を用いるのが正式な形といわれている。
楽器のうち横笛は別として、他はすべて軍用具であり、楽の調子は勇壮に感じとられる。
なかでも、楽器の一つであるほら貝の使用を考えてみると、大蛇山の勇壮さにつながるものと思われる。

三池本町で一月十五日に古くから行われてきた火難除けの「臼かぶり」にもほら貝を用いている。「ほら」は修験者(三池地方にいた山伏)の士気を鼓舞し、いろいろな合図にも用いられている。
疫病の邪悪祓い豊穣を祈る、熱烈な祇園信仰と山伏の有する加持祈祷の験力とひとつにとけあい、そのほら貝の響きによって大蛇山のいっそうの霊力を発揮するようになったのではと思われている。
ほら貝の三半、 二半、一半音の出発の合図によって、山車はおごそかに動きだし、相次いで、錨や太鼓、笛が奏せられたのであろう。今でも、大蛇山車の巡幸には、これらの楽器による1況が奏せられている。

神輿

神輿

三池本町の御輿の巡行の先頭に露払い(手桶の塩水を榊の木で行く先々を浄める)、御輿、その後に笛、鐘、太鼓、ほら貝の楽座連中が樂を奏でしつつ御輿に従い町内を巡行する。
また、三池本町祇園宮の御輿は通称「暴れ御輿」と呼ばれています。その由来は明治維新以前、かねてより評判の良くない家に踏み込んで暴れまわることにあったといわれてます。
現在はそういうことはありませんが、前方へ走って行ったかと思えば後進したり蛇行したり回転したりと暴れ御輿の伝統を引き継いでいます。

水(臼)かぶり

水(臼)かぶり

1868(明治元)年の三池地方の大火事以来、火災除け祈願として行われている三池本町祗園宮の神事です。
力自慢の若者達が、最重量70kgもある木臼の中に水を入れ、その水をかぶりながら臼を放り投げる光景は全国的にも珍しくかつ勇壮なものです。厳冬の中で行われる奇祭で、催事当日の境内は、見学する観光客、カメラマンや報道陣であふれます。

水(臼)かぶりについて

私達の郷土「三池」は、古くから肥後と筑後柳河を結ぶ「三池街道」の宿場町として栄えましたが、元禄十二年の「三池火事」 をはじめ、大火の記録の多い町でもありました。
明治元年(1868年)三池上町・寺町の80戸を焼失した大火のあと、火災よけの祈願としては始まったのが、「三池の臼(水)かぶり」 と伝えられ、今日に至っています。
この行事は、大寒の正月十五日に、白装束に身をかためた上町・寺町の氏子達が三池弥剣神社(祇園宮)の氏子中(三池第一、材木町、神田脇)の家々を隈無く二度駆け巡り、三度目には法螺貝の音に励まされ、うず高く積まれ、水を濃いだ臼を豪快にかぶり捨て、あるいは家々の門前に置かれた臼やバケッをかぶり氏子の火災除けを祈りながら駆け抜けていったものだそうです。
大寒のみぞれのなかを白装束の子供達が、氏子中の火災除けを念じながら、けなげにも走る様は、また別の趣があったことと思います。年齢の違う子供達が同じ祭りに参加したという体験は、のちに同じ地域社会に暮らすものにとって、貴重な共通の思い出となったことでしょう。
初めは青壮年を中心とした行事であったのが、次第に新1年生から小学校高学年を中心としたものに変わりました。
だが、交通事情の悪化にともない、氏子中巡行が危険となり、「臼(水)かぶり中止のやむなきに至り、昭和58年、四半世紀を経て、伝統行事の保存を願う神社保存会とJ:町 寺町の氏子を中心に、祇園宮境内において「臼(水)かぶり」を復活させた次第です。
復活させて、3 6年経過しますが、今ではすっかり定着をし、奇祭故に大牟田市民はもとより遠方からも多くの見物者やカメラマン、あるいは報道陣で溢れ、毎年テレビ放映されるまでに至りました。

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